Wednesday, March 30, 2011

原発事故の恐怖

禍転じて福となす。



東北関東大震災から2週間以上経ちました。まだ余震が続いています。東京では余震は少なくなって来ましたが、揺れるたびに起こる不安は、拭い去れません。これは慣れるものではなく、それがストレスになるのは間違いないです。

福島第一原発は、日に日に深刻な状態になっているように感じます。TVのニュースは、深刻な状況とはいいつつも、安心、安全をうたっています。それもとてもごまかした言い方で、表現しているように聞こえ、情報が的確に、明確に伝わっていない印象を受けます。

その中で、直ぐに健康に障害が出る放射線数値ではないので、摂取しても大丈夫(直ぐに健康に障害が出る放射線数値ならば、直ぐに隔離しないといけないほど凄いわけで、この数値が将来どう影響するのかが不明瞭)、とか民間放送は、この原発事故の収拾が直ぐにでも終るような視点で、話している部分もあり、このままこれが続くつづくのはありえないと発言する人までいる。(私は当分続くと思っているのに、長期に渡った視点がなく、何となく無責任な気がします。)

アレルギーのように、許容量が超えて花粉症になるように、放射線と放射性物質を摂取しすぎて、放射症?になることもあるのかしら。そのうち白いマスクが、ガスマスクのようなものに変わって、みんな装着するのかしら。(アメリカではほとんどの人が、マスクをしていなかったけど、日本ではマスクをする人が多いですよね。)

人々がパニックを起こさず、冷静な目で判断し行動できるようになるにはどうしたらいいんでしょう。間違った情報の取得や理解、勘違いが起きることは想定できます(実際私の母は、今回の原発の事故以後、勘違いして理解しているところがあって、彼女の行動や言動は私を驚せることがあります。現にここに一人いるのですから、全体ではどれだけいることか)。私自身も今回の原発について、どれだけ知っていて、どれだけ理解しているか問われても、答えられません。ささやかな知識とカンだけですと言うしかないですね。(私のカンは鋭いですけど。。。)

危険な状況下を不透明さの中で生きる。恐怖と不安との戦い。冷静さを保つ。心の平和を持つ。課題がいっぱい。私はこの前まで恐怖におののいていましたが、ある方の言葉のヒントから、覚悟をする事にしました。何の覚悟?何が起こっても動じない覚悟です。生きたいという意志の尊重と、何が起こっても私は大丈夫だと思う開き直りです。平常の生活をして行くだけです。気持ちを切り替えるだけで、楽になります。世の中は何一つ変わらないのに、私だけ変わった様に感じます。感じるのも、考えるのも私だからです。

後は、何をしたいかによって、冷静に行動できますよね。目的が出来るからです。今回の地震で何が大切だか、序所に見えてきてるのではないでしょうか。生きよう日本!

Monday, March 21, 2011

節電!

ノーモア 原発。



大地震が起きてから10日が経ちました。この10日間で人々の中に色々なドラマが、生まれたことと思います。

これを機に、実家に帰って親孝行しようとする人。好きな人に気持ちを伝えようとする人。親と仲直りする人。ヴォランティアに参加する人。転機になる機会をこの地震によって、得ています。

原発はまだまだ油断出来ません。いい加減に止まってくれよと思うくらいに、まだ余震が続く中、地震の不安とはまた別に、原発の目に見えない放射能の恐怖がある。こんな事が現実にあっていいのだろうかと思う、現実がここにあります。

この原発の事故によって、電力供給が十分でないため、節電と計画停電を関東一円でしています。電車の本数は減り、ネオンは消え、店舗は早く閉店し、店舗も一部電気を消しての営業。町には人が夜遅くまで徘徊していません。それでも、生活はまわっています。私もその状態でも困ってません。

きっと多くの人が、今回の節電の呼びかけで、こんなに節電出来るんだと認識したのではないかと思います。それと同時に電力が無いと生活出来ない世の中になっていることも、再認識したことと思います。

人の動きが地震前より無くなっているので、多くの店舗や、飲食関係のお店は売り上げが、激減しているかもしれませんが(私も収入激減です)、もう少し落ち着けば、売り上げは戻ってくる気がします。節電のままで今後も行って欲しいと思います。

もう、こんな恐怖はまっぴらです。今まで電力に頼って、行き過ぎていたように感じます。
電力に頼らない生活を今後は考えないといけないし、使う必要のない電化製品を減らしていく。

今、命を賭けて原発の事故に向き合ってくれている人達がいます。彼らが味わうだろう、その後の身体の恐怖は、重く圧し掛かるでしょう。その事を無視して、電気消費は出来ませんし、やってはいけないと思います。

電気が輝いてる明る未来ではなく、人々が安心して生活出来る人災の無い、明るい未来を築きたいですね。

Wednesday, March 16, 2011

地震!パート3

 全ては一つ。


地震の続きです。

何だか日本は大変なことになっています。地震と津波で東北地方海岸線が莫大な被害。それに加えて、原発の事故による危機。放射能汚染の心配は、目に見えないだけに深刻になる可能性があります。

被災地でない東京でも、東電による計画停電や電車の運行路短縮、減運。節電への呼びかけ。ガソリン不足。スーパーでは品不足。パン、米、カップめんは常に無い状態。電池も売っていません。
放射能物質の浮遊や余震がおさまらない状態での不安から、外に出る気がしない。まるで、戦争中のようです(戦争体験はしていませんけど)。非常食がテーブルに置かれ、水の備蓄。家ではヘルメットまで食卓の上に置かれてます。

地震当時の東京は震度5強。私は有楽町交通会館ビルの2階にいたので、凄い揺れでしたが、他の高層ビルよりは揺れが強くなかったと思います。(後で聞いた話では、交通会館ビルは古いのですが、耐震性に優れているビルだそうです。幸運でしたね。)友人から聞いた話では、マンションの10階や14階に住んで居る人は、揺れが酷くて、食器や物が落ちて壊れたそうです。弟はテレビが倒れて壊れたそうです。

一軒屋に住んでいる人は、比較的被害が軽かったみたいです。母は一軒屋に住んでいるので、ほとんど被害は無かったです。凄い横揺れだった事が分かります。高いビルは左右に大きく揺れたんでしょうね。

私が思うには、災害になると人々が助け合うので、人々のふれあいが出来ます。家族の事が心配になるので、家族間の絆が深くなります。今はそれを求められているのかもしれません。人々の絆が世界の平和を生むのではないでしょうか。

とても真面目な日本人は、この災害の中でも、殺略や暴動などがなく、助け合いながら生き抜いていっている。高い安全性を誇っていた日本の原発が、とても危険な状態です。それらの事が、世界に向かっても、発信されて、見習ったり、見直しされていると思います。(現にドイツでは、原発の使用を凍結したそうです。)

第二次世界大戦の攻撃や原子爆弾による壊滅から、戦後数々の災害から立ち直ってきた日本です。今こそ、人々が思いやりをもって、人間の絆を深めるべきです。心の余裕を持つべきです。

地震の当日の深夜の電車の中で、途中から乗ってきたおばあさんに席をゆずらない事が、あってはならないのです。(誰もが疲れているのは分かりますが、せめてこんな時そこ優先順位を考える余裕が欲しいです。離れて座っていた私が席を譲りました。おばあさんの地震後の行動の話を聞きました。赤羽から練馬まで7時間かけて来たみたいでした。母も江古田から家まで7時間かけて帰っていました。脅威的。当時バスは何とか動いていたので、バスを使ったそうですが、その待ち時間と渋滞がすごかったみたいです。私は夜遅くに帰ってきましたが、至って順調でした。)

まだまだ、余震や新たな地震が続きます。何となく私は日本に帰って来てよかったと思います。母を一人にしなくてすんだからです。お互い冗談言って笑っています。一人では笑えないですからね。

Monday, March 14, 2011

地震!パート2

縁は異なもの。


前回の「地震」のつづきです。

食料を買って、有楽町交通会館に戻って来て、お店の中でみんなで(5人)各々が買ってきた物を、出し合って食べ始めました。人間何か食べるとホットしますね。

その後、もう一店舗の方(同じ階に2店舗あります)へ様子を見に行き、前から話をしてみたい人気の先生の所を覗いて見ました。丁度一人でいらして、これはいい機会なので、お話することに。

実に面白かったです。お互いにリーディングしあい、私は初めてアカシックレコードの体験をしました。あまりにも衝撃的だったので、今でもあれは何だったのかと思います。運悪く(反対に運良くか?)、余震で動くのと、ビルのアナウンスで集中できなかったので、深く入る事は出来ませんでした。それでもヴィジョンは見えたので、もしはっきり見えたら、とてもショックだったかもしれません。また機会があれば、またやってみたいです。次回はそれほど衝撃的でなくなるかもしれません。

2人が居た空間がまるで別世界のようでした。過去世に行ったり、未来に行ったり。見ている映像や感じるものが同じ様で、言語なしで相手に伝わるので、コミュニケーションが非常に楽です。直ぐに意気投合しました。

たぶん私達は言語情報からイメージを浮かばせ、そのイメージから察せられる感情や雰囲気を読み取り、理解するのではないかと思います。それを、直接イメージ情報から入っていって、その時湧く感情や雰囲気を感じるようになる。とても原始的。でも、過程を少なくする事で、とても伝わり易い。

時間はあっという間に過ぎ、夜の11時頃に地下鉄が動き出したので、私達は帰りました。

今回の地震がくれた縁でした。

つづく。。。

地震!!!!

えらいこっちゃ。


 

日本で大地震が起きてから3日目。当日は東京もとても揺れて、驚きです。今でも何回も余震があります。

日にちが経つにつれて、今回の地震や被害の大きさが拡大していることが、分かってきました。

地震当日の11日午後2時頃では、東京は地震後全ての電車が止まったので、無事に家に帰れるかが、多くの人の心配でした。

私は当日、有楽町交通会館の2階で仕事をしていました。たまたまお店のロビー(お客さんに待っていただける場所)で、もう一人の占いの先生とお客さんの3人で話をしていた時に揺れだして、私は近くにあった鉄の柱に掴まって、揺れがおさまるのを待っていました。その鉄の柱は何故か普通の柱に付いてあり、天井にそってその鉄の柱が向かいの柱まで、囲むように取り付けてあるのです。たぶん、その場所は以前銀行のATMが入っていた店舗なので、その時付けた補強のものかもしれません。それに掴まっていれば、とりあえず安全だと無意識に判断たんでしょうね。

そのうち人々がビルの中に入ってきて、廊下や階段に座り込んで、電車が動くのを待っている状態になりました。携帯電話が通じなくなったので、公衆電話には長い列ができてました。

私達も何もできなくなり、冗談を言いながら時間を潰し、夕方になってそろそろ食べるものを調達するために、ビルの外にでることにしました。気分的には直ぐに電車は動き出すのでは、という雰囲気もあったのですが、何となく長丁場になりそうな感じがしたので、飲み物と食べ物は確保しようと思ったのです。それに、2003年のニューヨークの大停電の時に、陶芸教室のスタジオにいて、そこにいた人達が飲み物やパンを買ってきてくれたのを、とてもうれしく思った経験があります。

外は結構寒かったです。コンビニはほとんど手軽に食べられる物は、売り切れていて、銀座プランタンのパン屋ならまだあるかもと思い、ダッシュ。案の定パンはある程度残っていて、買えました。途中で飲み物を買って、エクレア買って(甘いものは見逃さない)、戻って来ました。

今や凄い時代で、情報は携帯電話のワンセグでTVを見ながら得て、状況を知る。私の携帯電話はそのような事は出来ないので、見せてもらい、情報が入るのはとても安心します。

余震はかなり続き、揺れても一人でないので心強い。ただただ、電車が動くのを待つだけです。

つづく。。。。