Friday, November 12, 2010

意識の外に回答がいっぱい

 自分の作ったテストは難しい。


とうとう明日退院です。4ヶ月の病院生活は長かったです。季節が2つ(夏、秋)飛んでしまいました。そして、今年ももう終わりに近づいていて、しゃばに出たら、生活も年も新しく始まる感じですね。

今では、歩行はだいぶよくなり、杖が無くても体の振れが少なくなってきました。右足の付け根辺りの外側(傷口の辺り)の筋肉が、かなり弱くなって体を支えられないので、歩くときに上半身が左右に振れていました。その事を、私の担当のリハビリの先生は、「ピョコタン」と呼び、私は「ヘコヘコ」と呼んでいました。

杖をつかないで歩き始めた頃は、ペンギンのような歩き方で、手をペンギンの羽のような感じでバランスを取り、ピョコピョコ小幅で歩いていました。それがそのうち、足幅が広がり、体を振って歩く。股関節から歩くのではなく、骨盤を体ごと前に出して歩く。

このピョコタン歩きがいつまで続くのか、いつになったら、余り疲れず歩けるのか分らないので、もどかしさがいっぱいでした。もどかしくなると、走りたくなります。もちろん、走ることなど出来ないのですが、走ってしまえば、右足が前に出やすく、体を支えられるような気になるのです。

入院最後の1週間で、だいぶ歩きが良くなり、足も軽くなってきました。階段も比較的スムースに上れるようになり、病院の階段を1階から8階まで上がり、リハビリの先生もハアハア。そうなると、リハビリというより、トレーニングです。

何事も序々に出来るのではなく、ある時、あれ?出来きてる、ようになります。陶芸もやっているうちに、あれ?作れた、とステップの長い階段状に進歩していきます。

目覚しい発展期は、昨日出来なかった小さい事が、今日出来てる状態になります。まるで細胞が修練していて、いろいろなデータをはじき出して、筋肉を作り、この動作にはこれが必要と、回復させてる感じがします。歴史は夜作られるといいますが、体も夜作られているようです。

入院してつくづく思うのは、意識という私が分っていることは、ほんの少しに過ぎないということです。細胞などの体、自分に起こる出来事、自然も含めた環境、自分の周りの人々等が、私を中心に成り立っているにもかかわらず、私自身はよくわからないのです。

いまの時期、病院から見える夕日がとてもきれいです。遥かに富士山も見えるので、山のシルエットもふくめて、空が織り成す、美しい色の色彩、コントラストが、ものの見事に映し出されます。病院の食堂から一望できる、夕日の景色は、実家に帰ってからは見られない風景です。退院前に私に見せてくれている美しい夕焼けは、まるで贈りもののようです。

まるで私の為にとでも言いたくなるほどですが、そう言って何が間違っているのだろうかと思います。意識の私が知らないだけなのかもしれません。本当に私への贈りものなのかもしれません。感じるのは私ですから、そう思うほうが幸せを感じる気がします。

もうそうなると、世の中は自分の為に成り立っているのだと言っても、過言ではないのと思います。

他人が見ている世の中と、私が見ている世の中は違うのです。誰でも同じ所に住んでいても、見ている世界は違うのです。しかも、意識は自分が思っている世界を全部把握していないのです。

また、人のことを言い表すのに、例えばある人は品のあるかないかで評価したりします。たぶんその人にとって、品があるか無いかがとても重要な位置を占めているのでしょう。私は基準を面白いか、面白くないかで評価し、品があるかないかはさして問題にしません。きっと私は面白い人間になりたいのでしょう。そうなると、同じ人なのに、それぞれの評価が変わってきます。本人は何も変わってないのです。

そうなると、人々も自分の為にいるのです。なにせ勝手にこちら側で判断しているのですから、同じ人でも、人によって見方が違って、都合よく判断されて、その人自身については、誰もわかりません。ただ、他人どうし比較しやすいので、人は本人の知らない面が見えるのは確かですが、それもその人の本質を見ていることにはなりません。

世界も人々も自分の尺度でみているのですから、自分の為にあるのです。しかも、意識は自分の為にある世界も人々もすべてを把握していないので、把握していない部分に出会うと、問題が生じたように錯覚します。でも、すべては自分の為にあり、自分自身が作りあげているのですから、問題は何もないのです。

困難にぶち当たったら、意識が把握していない部分にさしかかったと、思うのはどうでしょう。把握してしまえば、もともと自分で作りあげているものなのですから、どうにでもなるのです。乗り越えられない、回答がでないものは、作り上げたりしないものです。

知恵は把握していない部分の、謎解きに使うのにあるのかもしれません。全てを知っていたら詰まらないので、知らない部分を作る。知らないと知りたくなるので、勉強する。人生は自分で作った問題を、自分で解いているのかもしれません。

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